昭和46年09月19日 朝の御理解
御理解 第54節
「徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はない。」
徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はない、信心をだんだん頂いてまいりますと、確かに取り越し苦労をせんですむようになる、心配が薄くなってくる段々、心配をせんですむ、これは少し自分は呑気になったのではなかろうかというくらい、心配をせん心に障らなくなってくる。と言う事は、もうすでに徳を受けていつている姿だと思います、それがだんだん心配が無いというところまで、頂いた時に徳を受けたと、いえるのじゃないかと思います。
昨日、青年教師の信心実習二日目、質疑応答の時にこう言う事を質問された、青年教師の方があった、大体金光教の信心はおかげを受ける道でしょうか、徳を受ける道でしょかと御理解百節に、このかた金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道がなるほどおかげである、けれども家繁盛、子孫繁盛の開けてくるもとは徳である、もうあなたが質問された通りですよと言う事である。
だけれども金光様の御信心はやはりどうぞ信心しておかげを受けてくれという、神様の願いというものは、ただ病気が治ったとか目前の難儀な問題が解決したと言った様な、もちろんそれもおかげです、けれども、どうぞといわれるおかげというのは、やはり親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と言う様に家繁盛、子孫繁盛のおかげを受けてくれよというのが神様の願いであり。
金光大神はそういう道を教えられるのだ、だからそういう道を習わせて頂く、そういう道を行じていくということは、そのままお徳を受ける道だ金光様の御信心は、どこまでもその、他の宗旨、宗派と違うところはそこなのだ徳ということは申しますけども、家繁盛、子孫繁盛ということは言わない。むしろ一代きり、あちらは知識名僧だと言われる様な偉いお坊様でも一代限り、子孫繁盛にならない。第一妻帯をすることすらを、厳しく言うのですから。子孫繁盛につながる筈がない。
ですから金光教はどこまでも徳を受ける道を教祖金光大神は教えてあります。御理解百節を頂いてみるとそれが分る、目出度、目出度の若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は、子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ。子孫繁盛、家繁盛の道というのは、徳を受ける道を教えるという事なのです。だから五十年信心しておっても子供に信心が伝わらなくて信心はどこえやらいってしもうた様なお道の信心をしておる人の中にどの位あるかもわかりませんけれども、結局金光大神が教えられた。
徳を受けられる道というものを行じてなかった。只お取り次ぎのお徳にお縋りして只、目先、目先だけのおかげに終始しておったと。言わなければならんのであります。だから金光教の信心を頂くというが金光様の信心にご縁を頂いたと言う事は、もうそこからね徳を受けて行く道を学ばせて貰う。金光大神が教えられたことを行ずると言う事は、もうすでに徳を受ける道であり家繁盛、子孫繁盛の道なのだ。それもそういう表現をしておるのは、私どもは他の宗旨、宗派はしらんけれども。
やはり金光教の独特のところじゃなかろうか、独得な有り難いところぢゃなかろうか。生きとして生けるもの、子に孫に幸せが続く。子孫繁盛、いわゆる枝も栄える葉も繁るというおかげを頂いてこそ、やはり親の願いである筈ですから。そのために、金を儲かるなら儲かるために、血道を上げる人が沢山あるのですから、立派な家を建てたり、田地田畑を買い求めて、そうしたら子に孫に伝えて、少しでも楽に子供が幸せになる様にというて、財産作りをするわけです。
ところが先のことはわからん。折角作ったその財産がかえって子供を苦しめる様な結果にならんとも限らん。親が一生懸命貯め上げた、子供が楽をする、孫が乞食をするといった結果が、世間一般の栄枯盛衰は世のならい、といったものがそれなのです。けど金光大神の道はそうぢゃないのです。栄えた上にも栄えて行く道なのです。そういう道というのは、徳を受けて行くと言う事、そこで私ども信心させて頂いて自分で感じさせて頂かなければならない。
自分で確かめて行かなければならないと言う事は、自分の心の中に今どの様な不安があるか、心配があるか。信心のなかった時代にはもうそれが心配でならなかったけれども、段々信心がわからせて貰う様になり、金光大神が教えられる、言わば教えの道というものを行じさせて頂いておる間に、段々不安がなくなってきた。心配がなくなってきた。ならばあなたは、徳を受けて行く道を身につけて行っておると言う事が言えるけれども、信心はしておるけれども心配。
心配する心で信心せよと仰られますから心配する心で切実な心配心を神様に持って行くわけ。それでおかげを頂く。おかげを頂くというても、おかげだけではない、そのことを通して信心がわかる。そしてこのことは心配する事ぢゃなかったんだという事が段々体験づけられていって、例えどの様なことに直面しても心配せんですむ、驚かんですむと言った様なおかげが身についてくる訳であります。
そこでです、徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はないというその神徳というものをです、受けるということはどの様な事に焦点をおいたら良かろうかと。御神徳というのは、いわゆる神様の御信用だといわれておりますが、神様に御信用を受ける、神様には喜んで頂くという道がある。神様に喜んで貰う道を知らなければならん。為には神様の心がわからなければいけん。
どんどんお供えしなされば神様が喜びなさると思うておる人がある。朝晩参れば神様が喜んで下さると思うておる人があるかもしれん。決してそんなことぢゃないです。日参り、夜参りしたっちゃこればかりは参ることばかり参ったっちゃいっちょも言う事を聞かんと言う事になるのです。てんで拝むことだけはそうにゃ拝むけれども俺の言う事は聞かんと、まるきり神様を拝み倒す様にして拝む人がある。
それでも神様は喜びなさらんね。どんどんお供えさえすれば、御用さえすりゃ徳を受けるなんて真っ赤な嘘です。おかげを受けてもお徳にはならん。そこで神様の本当に求めておられるところはどういうところだろうか、いろいろありましょう。神様の求めに応えられる信心、そこで絶えず神様の言わば顔色を見ておくというかね。昔、椛目の時代に皆さんも御承知でしょうがね。
大牟田から荒木さんという修行生がきとった、全然耳が聞こえない、もういつも私の顔いろをみておる、もう私は驚きよった、私が一寸ふところにてをいれると、あぁ親先生がハンカチをもっておられないと、すぐ感じるらしいのです、もう紙とハンカチとをこうやってもってくる、もうそれは驚くばかりでしたよ、私が水を飲みたいなあと思うとちゃんと水をもってくるのですよ。
どこからどげなふうに通ずるじゃろうかと思うくらいに、それは本当に素晴らしいかったです、そのタイミングの素晴らしいことね、私の心がいつも荒木さんに通うとる、そのためにちやんと、七つ道具をぶらさげとる、爪切りから爪磨きから、耳かきからもう様々なものをしっかり私が一寸耳をかきょると、先生一寸お耳をと言う様なこと、もうそれは気がきいとるといえば、このくらい気のきいとる男はなかったですね。
丁寧なこと、ですから私は神様の顔を本当にみよらなければ、あぁ神様が何を求め賜うておるかがわからんのである、ところがさあ私ども凡夫ぢゃそれが分りませんけれども、そこで教えにありますところの、いわゆる神様の御心というか、神様が、あぁこうあってくれよと仰るところをです、本気で行ずる以外ないことになります。神様が一番大事にされるものはなんだろう私はこれは私の想像なんですけれども。
それは生きておるものが人間だけじやありません牛もおれば豚もおれば、様々なものが生きとし生けるものなんですけれども、その生きとし生けるもののなかでもです、一番私は可愛いと思われて一番大事と思われるのは、まあ人間ではなかろうかと思うのです。人間よりも豚の方が可愛いいと言う事はなかろうかと思うのです、これは神様の御心なのです、だから人間のことを氏子とこう呼びかけ賜う、自分の子供とお呼びになる、そこで御神訓を開かせて頂くとね、こういう様なところがある。
「人の身が大事か我が身が大事か人も我が身も皆人、天が下に他人というものはなきものぞ」という様な御教えがあります。天が下にある生きとし、生けるものその中でも人間氏子をです、神様の可愛い御子であり御氏子である。そこでです人の身が大事か、我が身が大事か人も我が身も皆人というのでありますから、その人間氏子をです、神様の氏子としての見方、成程人を軽う見たらおかげはなしと断言しとられる。
話がよく分りますね。神様が一番大事にしておられるものを軽蔑したり、悪く言うたりしているのですから、おかげはなしと仰る苦です。その神様が一番可愛い、一番大事と思うておられる。人間氏子人間同志です。人間同志がです仲良うする事、大事にしあう事、尊重しあう事、この事が如何に神様の御心に喜びを以って傳はって行くかと言う事を、私は感じます。器量が良いから、悪いからで人を軽う見たりする人がある。衣裳が良いとその人を大事にするけど、みすぼらしい格好をするともう見下す。
私は中味を見る眼を頂かねばいけない。甲の人にはちやほや言うけれども、乙の人には鼻も引掛けんという態度を取る人がある。それではおかげを受けられん、それでは徳は受けられん、いや徳を受ける道はまだ沢山ありますよ。けど今日はとりわけ、神様の一番大事にされるもの、一番可愛いと思し召すもの、これは世界中に住む、天が下に住む人間氏子であろうと私は思われる。だからその氏子どうしが争い会ったり、憎み会ったり、又はそれを軽う見たりする様な事を神様は御嘆きであろうとこう思う。
それと反対に尊重し会う拝み会う、そういう行き方をどれ程にか、神様がお喜び頂くかわからない。その喜びが私どもに伝わり通うて来ない筈がない。本気で私は人間同志に親切の仕合い、親切を以て接して行き、人の身が大事か、我が身が大事か人も我が身も皆人である。昔から諺にもありますね、我が身をつねって人の身の痛さを知れ、ところが最近そうじゃない、あ痛と言うのを確かめて、と言った様なね行き方の人がある。人の身のことなんか考えていない、自分だけが大事である。
こういう行き方ではお徳はまず受けられません。私が椛目で人が段々助かる様になってから、ある日でした。丁度秋の取り入れが済んで田がもう半分位は耕されておるという時分でした、当時は門外不出でしたからね出ません。神様が今日は落ち穂拾いをすると仰られる、それでまあ支度をしましてから久しぶりで外へ出らして頂いた。成る程当時は食糧難の時分ですからね、もう落穂拾いが非常に多かったです。
唐米袋を担いで、落穂を拾って歩く人があった。もうしかも田すきが半分位終ってからのことでしたからもう拾い上げてしまっている感じ、それでも田をすいてない田んぼに入らせて頂いてさあ、今から拾うぞと神様がいうて下さるともう落ちておること、落ちておることもうずうっと拾わんならん位落ちとる。もう驚いてしもうた。そしてなら神様が拾い止めなさるとさあもう探せども、探せどもなかなかない。神様がさあ拾うぞと仰ると目につくこと、目につくことばさらが、そう言う事がありました。
これはね今私がここで教典を開かせて頂くのもそのおかげです。例えば福岡から久留米に帰らせて頂く、もう私は電車に乗ってからもう腰掛けよう等とは思いませんから吊り革を持ってしかもその吊り革持ったまま眠ると、そういう稽古ができておった。だから電車の中で退屈なから神様がいろいろと話かけて下さる。さあ今日は光りの箱を探すぞと神様がおっしゃる。当時は光りというタバコを吸う人が非常に多かったです。
電車の箱の中にその光りの落ちとることバサラカ、外の方に目をやるとホームのレールの下にやると光りの箱が落ちとると、もうずうっとどうしてこげん落ちとるぢゃろうかというごと落ちとる。それがそうに私が神様がいうならば、神様が離れなさるとそれこそ探したっちゃめったには無かというごとある中に、ですからお徳というものはね、私はこの五感に感ずるものだと思うです。
目ね御神眼、御心眼、鼻又は臭覚又は口、口で以て、ですから例えば失せものなんか致します。あらどこへ行ったぢゃろうかと思うてお願いをすると、この目の行くところにちゃんとあるという様なおかげを頂いとる。臭覚というものなんかもう、本当に素晴らしい事ですよね。いつか私は、いかの酢味噌をどこかで頂いた事があった。あぁこれに山椒が摺り込んであったら、もっとおいしかろうかなあと思うたらもうその鉢の中に山椒の臭いがプンプンするです。
山椒の臭いが、だからどこかに山椒がある訳ですよ。それをここに集めなさる働きがある訳です言うならば東京の歌舞伎座のお芝居が此処にでも神様が見せて下さろうといえば見れるものなんである。ないものを見せて下さろうというのではない、有るものを見せて下さったり、聞かせて下さったりそういう働き。ですから今でも私が御神前で頂いたこと、又は感じたこと、又は私の信心と同時にこれを二十年間毎日、此処と私の目の動いたところ開かせて頂いて、聞いて頂く訳です。
皆様へそして神様から私が頂いておった事といわゆる私が肉眼を以て、見せて頂いた所が、というてここの頁を開けた所が沢山な、例えばここに五十二、五十三、五十四、五十五節もあるのですからね。四つもあるのですから、そこに眼の動く所そこが五十四節であった訳です今日は、だからその五十四節のどういう所を聞いて頂こうかとお願いさせて頂いたら今の御神訓の人の身が大事か、我が身が大事か天か下には他人というものはなきものぞ。と言う事を焦点にしてのご理解と言う事になった訳であります。
それで成る程お徳を受けると言う事は、神様が一番喜んでなさる事は、どう言う事じゃろうかと、今日の時点で申しますとです、神様が一番喜びなさる。人間氏子を大事にする、尊重すると言う事だと言う事になった訳です。なら果たして私共がです、人間を本当に尊重した、見方をさして頂いておるかどうかと言う事を、今日は特に確かめてみて、本気で人を大事にさせて貰おうという、修行を今日はさせて頂きたいと思う。とりわけいわゆる落穂拾いである。
私はその落穂拾いの時にもうまたたく間に手に握られんごと拾いましたです。その時に、そして帰らして頂いて神様にお礼申させて頂いたら、今日の落穂拾いは、実際の落穂拾いでありましたけれども、世の中の落穂ぞと、神様はご理解下さった。世の中にこの様に生をうけて来て、折角天地の御恵みをもって稲穂が出来て育った、けれどもそれが又田んぼに返って行くのですからね。
拾い手がなかったらこんなに、神様は残念に思いなさる事はなかろうと思うのです。ましては人間氏子の中には落ち穂に等しい人が世の中には沢山あると言う事、それを難儀な氏子と仰せられる。折角こうしてこの世に生を享けさせて頂きながら、本気でこの世に清まりに来ておることも知らないで終って行く人がどの位あるやら分らん。だから落穂にも等しいと思われる。
こういう難儀な氏子の上にです、私どもは神様の手になり足になって御心になって落ち穂的な人達を、拾い上げて行こう、救い上げて行こう。共に助かり会うて行こうという、そういう働きが神様がお喜びにならない筈がない。そういう喜びがそのまま御徳にならん筈がないと私は信ずる。今日は特に本当にこれが落穂であろうがと言う人を大事にさせて貰うと同時にこの人達のために祈らせて頂く様な信心を頂きたいと思うですね。
どうぞ。